2012年12月17日月曜日

2012年12月9日の午後

 記憶が薄れる前に色々書いていきたいと思います。
 2012年12月9日(日)は、休日出勤で職場にいました。
 午後2時少し前ぐらいだったと思います。連絡が入りました。
「娘さんが大変です。至急、救急外来に来てください」と
 この時は、交通事故にでもあったか?と思い、慌てて駆けつけました。
 救急外来の奥の処置室に通されました。
 治療ベッドの上で、医師と看護師さんが交代で心臓マッサージを行っていました。
 妻は、一足早く到着し、椅子に座ってうなだれていました。
 ひとみ の顔を見ると、意識無く、顔色も悪い状態でした。
 もう一人の別の医師が、これまでの経過を興奮気味に説明し始めました。
 この状況で、頭のどこかでスイッチが入りました。「これは、心臓が動き始めても、脳死状態になるであろう。慌てても、騒いでも、この状況は変わらない。」と気持ちが冷めてきました。変に冷静になったのです。多分、この時から感情が閉め出されたのだと思います。時間が止まり、淡々と状況をこなすだけになりました。
 医師からCTを見せられながら、「挿管されて気道は確保されていますが、両側とも肺がつぶれています。強心剤も3回使用していますが、1時間半以上この状態が続いています。」「心臓は動きだしません。どうされますか?」
 つまり、医師から、助からないけどこのまま救命処置を続けますか?と問われました。
 私が到着してから20分ぐらいたった時のことです。
 妻は泣き出しました。
 私は、「ありがとうございました」「充分、処置をして頂きました。」と答えました。
 はたから見たら妙に冷静に答えていたかもしれません。
 しかし、目の前は薄く白い幕がかかり初め、立っているのがやっとの状態でした。多分頭から血の気が引いていったのでしょう。フワフワした状態でした。涙は出ません。
「私が取り乱すと妻がパニックになる」と自制が働いていたのかもしれません。
 医師からは、もう一度、頭と腹のCTを残しておきたい。また、学校での急変なので警察に連絡し、検死を受けた方が良いことを説明されました。それに同意して、しばっらく待たされました。
 学校から付き添ってきた教師の方と話しをして、さらに後から駆けつけてきた校長、教頭、部活の顧問の先生とも話しをしました。
 親戚などに電話をして、家の片付けと残された妹弟の事を頼みました。電話の先では、動揺し慌てた声が聞こえました。多分、私が一番落ち着いていて、電話をするとどの様な反応になるかを予測しながら言葉を選んで話していたと思います。
 しばらくして、医師から詳しい説明を受けました。
 CT画像を見ながら穴が開いた箇所を示しながら「両側の気胸です。」「気胸じたいは、特別な病気ではありません。」「普通は、方側肺だけで起きることが多いのですが、お嬢さんは、両側に穴が開きました。非常にまれな例だと思います。」「気胸と言う病気は、肋骨との肺の隙間に自分で吸った空気が漏れて、肺を圧迫してつぶれてしまいます。それで、呼吸できなくなってしまいました。」「おそらく、学校で倒れた時点でそうなっていたと思われます。」「救急車で運ばれてきた時は心肺停止状態でした。」「気胸が、何時おこるかを予測することは不可能です。」
 この後、警察の方が到着し、事情聴取を受けました。学校の先生方も同じです。医師からも事情聴取していました。その後、検死が始められました。かなり時間が掛かることを聞いていたので、中途半端に残してきた仕事を出来る限り終わらせるために連絡先を言って、妻を連れて職場に戻りました。
 自宅にもう一度連絡をいれて、もう少し時間が掛かること、葬儀社への連絡、段取りなどの調整を頼みました。
 午後7時すぎ、検死が終了しました。
 ここから体を拭いて、着替えをさせてるなど準備を行いました。
 この時点で、死後硬直が始まっていましたが、まだ何となく肌は温かい感じがしました。眠っているだけの様で全く実感が湧きません。
「本当に死んだの?」と妻と話しながら葬儀社を待ちました。
 午後8時頃、医師、看護師に見送られて病院を後にしました。