2009年3月8日日曜日

知識と知恵の違い

 昨日、能登小教区の3月度昇級考試がありました。能登小教区では、輪番制で各道院長が昇級考試後に法話を行っています。今回は、私の番だったので10分程度の短い法話を行いました。
 内容は、以前(2006年11月16日)ここで書いた「知識と知恵」の拡大版です。

 「知識」と「知恵」の違いを知っているでしょうか?
 「知識」は、物事を知っていると言うことです。「知恵」は、知っていることを実生活の中でどの様に役立ていくかと言う「知」です。「知恵」は行動が伴っています。
 昔は、博識と言って知識が多い人が偉かったのかもしれませんが、近年は、インターネットなどの急速な発達により知らないことは、検索によって瞬時に調べることができます。知っていることの価値は、下がってきたのかもしれません。
 ある大学の先生に聞いたのですが、最近の学生は、レポートなどの課題を出すと、インターネットで情報をかき集めて、コピペ(コピー&ペースト)して見栄え良くレポートを仕上げてくるそうです。一見便利に効率良いやり方のように感じますが、そこに自分の意見は無く、他人の考えのつぎはぎがあるだけです。「知」を育むという行為では無いと思います。
 そんな学生生活を送った人が就職すると、上司から使えない奴だと言われるのかもしれません。何せ、当面の問題に対して臨機応変に応用を利かせることが出来ないのですから。
 今日は、学科試験で文章も書いてもらいましたが、本の丸写してではなく、少しでも良いので自分の意見も入れて書いてほしい物です。
 小学校や中学校ぐらいは、「知識」を増やすことは大切なことだと思いますが、もう一方で「知恵」を働かせることも必要だと思います。
 幸い、少林寺拳法は体を動かします。上達するためには、教えてもらった以外でも自分で工夫をしなければなりません。また、二人一組で練習することも多いのでお互いにコミュニケーションをとりながら行う必要もあります。「知恵」を使う機会も多いのではないでしょうか?
 「知識」は、座って本を読んだり、インターネットとつかったりと、バーチャル(仮想現実)の中でも得られるかもしれませんが、「知恵」は、リアルな現実の生活の中でしか得られないと思います。
 最後に、「般若(はんにゃ)」と言う言葉がありますが、意味は智慧(ちえ)だそうです。いわば、「仏の知恵」のことです。そこまで「知恵」を昇華できれば良いのですが、そのためにも行動が伴なわないといけないと思います。

 言葉を整えて読みやすくしたので、実際に話した言葉とは多少違うとは思いますが、だいたい、この様な内容の事を話しました。  追加して書くとすれば、

 知恵は知恵でも「悪知恵」と言う言葉もあります。どこかの政治家達(秘書か?)が自分たちで作った法律の抜け穴を使って献金を受ける。献金を受けること自体は、必要なことだと思いますが、不正の温床になるとして自ら決めて、それを自ら破るのはどうかと思います。(失礼、まだ確定した訳ではあいませんでした)昨年から続く「偽装事件」も同じように「悪知恵」を働かせたものです。「知恵」を使って防ぐか、起こりにくい様にしていくしか無いかもしれません。
 「これは悪い事である」と知っているし、「こうすれば、ああなる」事も知っているはずですが、頭の中だけでの話であって、現実のリアル感が薄いのかもしれません。または、バーチャルの世界がリアルに感じて、現実が夢現に感じているのでしょうか?